日の出時刻が遅くなってきています。
ついこの間まで、4時、5時には俄かにほの明るくなっていた朝がまるで嘘のようです。
日照時間が短くなってきましたね。
朝日を浴びるのは、健康にいいそうです。
朝日からビタミンⅮが摂れるようです。
とは言うものの、最近まともに朝日をあびていないなと思います。
別に朝起きるのが遅いとか、そう言う訳ではないのですが。
早起きは結構好きな方なんです。
二度寝はしてしまうのですが。
カテゴリー: おしらせ
このサイトは、TOYOKAWA・統合失調症LINEグループ [Bar’s]の活動報告と共にグループメンバーを募集する為に作成されたホームページです。
取り敢えず、何でもやってみる。
好きな事をやるのに、回り道なんて無いですよね。語弊を恐れながら言わせて頂きました。
回り道が無いと言ったのは、好きな事の為に出来る事は全部、有益な事なんだろうと思いまして。うちの母は、癌だった時、出来る事は全てやっていました。医学療法も、免疫療法も、民間療法も、全てです。色んな事をやり過ぎて、何が利いて何が利かなかったか、分からなかったぐらいです。でも、それでも母は病気から生還しました。生きる為に全力を尽くしたのですね。僕も好きな事の為に全力を尽くしていきたいです。
成功体験がない時には、何をすべきか。
「今まで生きて来た人生で、成功体験を言ってみなさい」と言われて、全く一切れも成功したと思えた経験が思い浮かばなかったです。
受験で進学校に進んだ、とか、小学校の高学年の時、絵画コンクールで評価を受けたとか、自分ではそんな事ぐらいしか思い浮かばないです。自分は何をしたいのか、それはどうやったら成し遂げられるのか、それを少し考えてみました。
僕は作家になりたいです。姉はもう作家じゃないの、と言います。でも、僕の書いた本を本当に読みたくて読んでくれる人が何人いるでしょうか。僕は作家になる為に作劇法を徹底的に学びました。それで、多少の評価はあったものもありました。それは評価してくれた人が、僕の作品を良い物と思ってくれたという事で、喜ぶべき事なのだと思うのです。が、自分は満足のいく評価では無いと、思ってしまいます。折角、僕の作品に目を止めて下さった人がいるというのに、罰当たりですよね。
自分の器を知り、身の程を知るという事も大切だと思い、今は僕は評価されるのには、何が必要かを考えて、作品に臨んでいます。いや、まだその途中段階で、思考錯誤中かな?
執着も益?
執着って悪い言葉のように思われがちですよね。物への執着、恋人へ執着などなど。生きる事に執着すると、人はさまざまな執着心が沸き上がってくるような気がします。僕の場合は、友人への執着心でしょうか。僕の著書「僕はおまえが、すきゾ!」もちょっとした執着話かも知れません。親友の事が好き過ぎて、その親友に恋人ができた事をこころから喜べないでいる、みたいな結構ありそうで無いような話かもしれませんね。
まあ、執着もほどほどにするならば、益となるのでしょうね。
心の声。
人の心が見えたら凄い。そう思って、恋人が出来たら、嬉しいだろうなと思っていた。それがいざ、恋人が出来たら、相手の打算的なところばかりが見えてきて、でもそれを彼女には言えなくて、一人で悩む日を送っていた。
だけど、それは彼女が言っている言葉じゃない。僕の頭の中だけでしか聴こえない、嘘の声だった。だけど、そう聴こえるのは、僕自身にも問題があるのかも知れない。彼女の全てを知りたいと思って、彼女のスマホを盗み見た事がその一因になっているように思う。
その罪悪感からだ。罪悪感からくる彼女の心の声、それは僕自身が発している彼女への罪悪感だった。
おもしろ妄想。
多分、僕の統合失調症の症状、比較的重いです。昨日は、うちの姉の事を政府の人間だと思っていました。僕が特殊能力を持っていて(テレパシーや何かとんでもない秘密を知っていたりする人物だったりで)それを姉は、本人(僕に)気付かれないように、僕を警護し、監視していて、僕と姉弟というのは仮の姿で、実は政府から多額の給料を貰っていて、
そんな職に就いていると、考えていました。
が、この考えをいざ、落ち着いて文字にしてみると、おもしろ妄想でしかないじゃん!と思ってしまいました。やっぱり自分を客観的に見る事は大切ですね。昨日は本当にそんな事を事実だと思っていたのですから、ホントに困った病気です。
感情の平板化。
仕事を始める時の、辞め時ってどんなでしょうか。自分にはここは合っていないと思ったら、辞めてしまうのがいいのでしょうか。はたまた、もうちょっとやっていたら、何とかかんとかその仕事にも慣れてくるんじゃないかと思えるようになるんでしょうか。僕は統合失調症なのですが、周りの人からはあまり症状が酷く見えないみたいです。だけれども病院の先生や、長く話しをしている友人には、僕の症状は酷いと言われます。多分、それは感情の平板化が、原因かと思われます。
何が起こっても、何も考えずにそこに只いる、それって感情の平板化じゃないでしょうか。
僕ってやっぱり統合失調症なんだと自覚してしまう夜明けの事でした。
登場人物がひとりでに歩き出す方法。
僕はよく作品を書いていると、どうしても想定内のセリフや展開になってしまう事があります。自分でプロットを立てて書いていると
どうしても展開が作品を見てくれている人に
とっては、予想できてしまうようです。
故新井一氏の「シナリオの基礎技術」にはこんな事が書いてあります。「予想を裏切れ、期待を裏切るな!」という作劇法です。
予想が出来てしまうフィクションなど、想定できてしまって面白くないという事です。僕は決まって作品を書き始める前には構成を立てるのですが、書いている途中で、主人公がこんな風な危機一髪に瀕したら、面白くなるだろうなと思って、ストーリーの筋を替えてしまう時があります。そうすると予測が付かないストーリー展開になって、作品が面白くなるのです。それを作家は、登場人物が勝手に動き出すと言うのです。
作家という眼。
僕はシナリオセンターというテレビドラマなどを書く脚本家の勉強をしていました。そこでシナリオを書くセオリーは学んできて、物語の展開や構成などを学んできた事には、自負があります。けれども、ラマって言うのはそうじゃないんです。作家性というか、作家眼と言おうか、その作家の物事を捉える見方が作家のオリジナリティを作って行って、そのドラマを面白くさせるのです。僕は20代の頃から脚本の勉強をしてきました。シナリオセンターに入った事も、シナリオを巧くなりたいというよりも、コネを作りたい
いう思いの方が強かったかも知れません。そういう動機で始めた作家活動だったので、当然、賞コンクールに出しても、中々評価
は結びつかなかったです。でも、今なら物語
作ろうとする時、これはこんな角度から見た物語にしたら、面白くなるんじゃないか、とか考えたりして書く事が出来ます。それもこれも、創作活動をずっと続けてきたからに、他ならないです。
にせもの、ほんもの。
ホンモノの作家が書く小説とは、何かについてよく考えてしまいます。本物の作家が描く世界観とは、人生の縮図を人間観察を徹底的にして、取材を徹底的にして書くものなのだろうか。はたまた、自分の内面から絞り出したキラキラ、ドロドロ、ネガティブ、ポジティブを描いたものがそうなのか、考えてしまいます。だけど、その作家が本物かどうかを決めるのは、ぼくじゃなく読者一人一人なんだと思いたいです。僕は作品をあまり評価された事は無いのですが、本物か偽物かを決めるのを、他人にゆだねる事が出来るのは、ちょっと作品の作り甲斐があって、ホッとします。