統合失調症患者の喫煙率。

統合失調症の人は喫煙率が高いそうです。一説には、統合失調症の症状を煙草を吸う事で、抑える事が出来るとか出来ないとか。
僕はつい三か月前まで、3年間煙草を辞めていました。どうしてまた吸い始めてしまったのかは、その理由はあまうり把握していないのですが、作業所に通っていて、お昼がコンビニという時があったんです(いつもは、配達弁当なのですが)。それでお昼のコンビニの混雑時に、僕はレジの順番待ちで並んでいました。目の前には、煙草の陳列棚がありました。番号が振ってあるレジ内の煙草とはまた別に。僕はジッと煙草を黙って見つめていました。ジーっとジーっと。
多分、その時作業所では、新型コロナウイルスの為に、色々な規制が掛かっていたんだと思います。食事は男女別で黙食をするとか、月に一度のレクリエーションが中止、などその他色々な制限です。そのお陰で、僕はストレスが溜まっていたんでしょう。つい、フラッと陳列棚の煙草を手に取ってしまいました。煙草を吸っていた時期には、最後の方はわかばを吸っていました。煙草の値上げ前でしたので、当時は230円ぐらいだったかな?破格の安さでした。お金が無くて、漫画本やCDを売って、そのお金で煙草を買っていたと思います。ビニール袋に灰皿から捨てた吸殻のシケモクをゴミ箱を漁って吸っていた事もありました。それ程中毒で、もうそんな事はやりたくないと思いながらも、フラっと煙草を買っていました。
それから三か月、僕は再び禁煙をしています。理由は何だったのか、原因はなんだったのか、もう忘れてしまいましたが、あんなに中毒だった煙草が今度はすんなり辞める事が出来ました。
このまま吸わない日々が続きますように。

統合失調症という霧の中。

僕、本当はここにはいないんです。そう思う時が、しばしばあります。それは文筆をしている時や、幻聴が何か言ってる時だったり。
その幻聴は何を言ってるかって?僕の聴こえる幻聴には主語が無いんです。
「やっぱり駄目だったか」とか、「任せるんじゃなかった」とかネガティブと捉えようとすれば、ネガティブ幻聴が聴こえてくるのです。
僕の事を言っているのでしょうか。僕は駄目な人間なんでしょうか?僕には重荷となる任務だったんでしょうか?それとも僕の事なんか一言も言ってないんでしょうか。
どれにも当てはまりません。だって、それは幻聴なのだから。冷静になれば、すぐに分かる筈の事です。でも統合失調症の真っ只中にいると、その当たり前の事が、分からなくなっちゃうんです。
だから統合失調症なんです。
統合が失調しているんです。
自分だけでは、どうにもならないんです。
家族の助けが、周りの優しい人の助けがなければ、僕は嘘の霧の中を徘徊してばかりいるのです。
だから、週二回、メンタルクリニックにも行くのです。だから、頓服が必要なのです。
助けを斯うのです。

統合失調症という甘え。

統合失調症で孤立している人、ある一定数います。それは家族からの理解がされていない統合失調症当事者も含むのだと思います。家族が当事者に理解が無いと、どういう不都合が出て来てしまうのでしょう。
僕は場合は、以前の父がそうでした。
僕が家にいて何を言おうが、何を訴えようが、無視でした。母は腫物を触るように、僕を家の中に閉じ込めていました。
今はそんな事は、ありません。
家族一同で、統合失調症を勉強して、父は僕に外へ出るようにと、畑を市から借りてくれました。
母は、僕が社会生活をちゃんと送れるように、これはやったらダメ、あれはやったらいいと、指摘してくれることが多くなりました。僕も始めはそれを鬱陶しいだけだったのですが、時が経って、母の言っている意味が分かってきて、素直に母の言う事を受け入れられるようになりました。
作業所に通っていた時期には、雨の日は車で送ってくれました。毎日3食、作ってもらいました。それを甘えととる人もいるでしょう。でも、僕にはその時、その援助が必要だったのです。
父母がいなくなった時、ぼくはどう生きられるのだろうと、思っています。
知り合いの社労士さんは「精神障がい者の人は、お金が無くたって、結構生きていけるものだ」と仰ってくれました。
その言葉のお陰で、どれほど救われた事でしょうか。
甘えでしょうか?病気になってしまった事は、もうこの際、なってしまったんだから、しょうがないと思うしかありません。
僕は自分の病気をフル回転で利用し、生きていこうと決めました。
だから僕は今、統合失調症作家を名乗って作家活動をしています。

作家という生き物。

友人はよく本を読みます。自分の興味の沸いた統合失調症に関しての、学術書みたいなものです。そして友人はよく哲学をします。その考えを見て、なるほどと思う考えもあれば、思わず笑っちゃうようなへんてこりんな考えもあります。
だけども、それが本当の作家なのかも知れないとも思います。
彼自身の哲学を書き記す事で、それを知らない人は、彼の事を常識人だと思うでしょう。
だけど、僕は知っています。彼はとてつもなく超個性を持った変人だと。
これ、その友人が見たら、怒るかな?
怒られたら、消せばいいかな?

実のなる木。

僕が通っているメンタルクリニックの診療には、バウムテストという診療法があります。
それは一枚の紙に、実のなる木を描くというテストです。
只、テストだからと言って、いい悪いがある訳ではなく、その絵を見て、精神科医の先生が僕の脳みそがどういう風に機能しているかを図る為の絵なのです。
絵が巧いとか下手とかではなく、その時の僕を表す、鏡のようなテストです。
僕が書いた昔とちっとも変っていないように見えるその絵を、見ながら先生は、回復していると言ってくれました。
その絵にどんな意味があるか、僕には分かりません。
只、回復に向かっているという事は確かのようです。

空を飛べるように。

僕が入っている統合失調症当事者グループ『そんな自分が、すきゾ!』には、統合失調症を抱える仲間がいます。
最近はその仲間たちとも会えていないのだけれど、何かの機会にまた、話せたらいいな、と思っています。
LINEの通話グループは聴話で調和を生むというだけあって、とても受容をされているなと思う事が沢山あります。
時に、無言が長く続く時にも、自分が相手と繋がれている感覚を覚え、とても気持ちが休まります。
僕が立ちあげたTOYOKAWA・統合失調症LINEグループ[Brds]には、まだ僕一人しかメンバーがいません。
というのも、僕がまだ[Birds]の巣立ちは出来ていないからです。
だけれど、刻一刻と僕の中では、巣立ちの日を迎える為の準備をしています。
僕は僕なりのやり方で無事巣立ちの日を目指しています。
ちゃんと空を飛べますように。

秋の夜長に早く寝る。

仕事が終わって、一息吐いたら、何だか眠くなってきて、2時間ぐらい眠ってしまっていました。
最近は、夜10時ぐらいに寝る事が多くなってきて、以前までは9時には寝ていたのが、すっかり遅くまで起きているようになってしまいました。
これもまた、回復期にある事なのでしょうかね。
善しといたしましょう。

僕の頭の中だけで起こっている事。

自分は変人だと思ってる人は、そんなに変人では無いか、それとも相当の変人かのどちらかだと思います。
変人だと言われている人ほど、結構、社会の荒波に揉まれて、常識をキチンと身に付けている人が多いような気がします。
僕は自分の事を何の面白味も無い平凡な人間だと思うのですが、聴こえてくる幻聴には、他の人と真逆を行っていると言われます。
幻聴の言う事ですから、それは僕の頭の中だけで起こっている事実ではない、けれども僕には事実と思ってしまうところが、幻聴、妄想の厄介なところだと思います。
もっと幻聴に褒めて貰いたいです。
そうすれば、もっと生きやすくなるのにな、と思うばかりであります。

統合失調症×メタバース。

統合失調症で高校6年生(20)のVtuberもりのこどくさんは「もりのへや」というメタバース空間を開いています。
そこにもりのこどくさんは、出席していませんが、そこには数多くの統合失調症の当事者の方々が集まってきます。
そこで、当事者の方々は、色々な事を語り合うのでしょうか、もりのこどくさんが出席されていなくても、お互いに共感や気付きを得る事で満足して帰っていきます。
僕は先日の「もりのへや」の抽選に外れてしまったのですが、それほど、統合失調症の当事者は、当事者同士、繋がっていたいのだと思います。
僕が参加している『統合失調症LINEグループ「すきゾ!」』でもそれは同じだと思います。

統合失調症の僕というフィルターを通した世界観で書いた作品。

「還り道」という小説を書きました。56篇からなる長く美しい夢のような物語に仕上がりました。
この作品は、以前からブログに書き溜めていた800文字短編小説263篇の中から、56篇を選び、構成して書きました。
統合失調症の僕というフィルターを通して描かれた物語となりました。
『還り道』の大きなテーマは、生きる・夢の中というものです。
この作品を書くのに、モチーフとして使った二つの中国の故事成語があります。
『邯鄲の夢枕』、「胡蝶の夢」という故事成語です。
邯鄲の夢枕という故事はどういう話かと言うと、
立身出世を目指して都へ向かう魯迅という青年が、途中で立ち寄った茶屋で、道士から栄華を思うままに出来るという枕を貰い、魯迅はそこで少しばかりうたた寝をして、都へ向かいます。魯迅は、栄華を思うままに出来る枕を貰った事で、それから50年かけて立身出世をします。そして年老いて、眠りに就きます。そこでハッと目が覚めます。そこは立身出世を目指し立ち寄った茶屋で、うたた寝する程の時間しか経っていなかったという故事成語です。
そしてもう一つ、胡蝶の夢という故事成語があります。夢の中で蝶になった夢をみた荘子が、今のは自分が蝶になった夢を見たのか、それともそれとも蝶が人間になった夢を見たのかと考えるという故事成語です。
この二つの故事成語が、物語を書く上で、物語により深みを与えてくれたのだと思います。
最近の社会は、何処か現実味を帯びていないような感覚を僕は捉えます。
生きている実感を得る為の自傷行為や無差別殺人、現実だけれど当たり前の現実ではないのです。
だからこそ、この作品に夢、そして生きるというテーマを持たせたのです。
それによって、56篇の短編小説とも詩とも言い難い作品が、大きな意味を持たせる事が出来たような気がします。
先ほども言いましたが、僕はこの物語を、統合失調症である自分のフィルターを通して、描いたつもりでした。
しかし、読者からは、統合失調症でなくても、共感出来るという感想を頂きました。
この作品を多くの方に読んで貰いたいです。
そして共感を持ってもらいたいです。
それが僕の病気の最高の障がい受容になるように思っています。
どうぞ、この『還り道』を色々な人に読んで頂きたいです。